昭和49年01月14日 朝の御理解
御理解 第64節
「此方は参って尋ねる所がなかった。氏子はおかげを受けて、遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ。」
氏子はおかげ受けて遠路の処を参って来るが、信心して徳を受けて身凌ぎをするようになれ。身凌ぎの信心と言う事は、神様から色々お知らせを頂いたり、信心も一通りの事を判らせて頂いて、いうならこういう時にはああいう信心、ああいう時にはこういう信心という様に、自分で答えが出て来るような信心。そう言う様な事を身凌ぎという風に頂いております。合楽で皆さん信心の稽古をなさる方達。
それこそ遠路の処を参って見えておるが、どう言う所どう言う事を願いとして、参ってきてきておるか遠路の処を参って来る。寒修行が始まつて日頃は出来ん方でも寒修行中だけ位は一つお参りして、修行させて貰おうと云うてお参りをして来る。ですからお参りをして来るにしても矢張り願いの焦点というものが、段々しっかりして来なきゃならん。云うならば身凌ぎが出来る位なおかげを受けたいと。信心して徳を受けてとこう仰るから、徳を受けて身凌ぎをする様になると言う事を願いとしてお参りをして来る。
こういう信心をする事が、お徳を受ける事だと言う事が分かる。所が徳を受けてとこう仰るが、徳を受けずに身凌ぎの様なおかげを頂いて、それを身凌ぎと言う様に思い違をいして居る人達も沢山有ろうと思う。所謂慢心であ、又、怠慢な心です。身凌ぎをす、本当の意味においての身凌ぎが出来るようになったら、信心、愈々前進以外にありませんし、、身凌ぎが出来る様になったら、神様はそういう導きを必ずして下さるんです。大抵信心が詳しくなった。そしていうならばおかげを段々に受けて来た。
昨日十三日会で、秋永先生がお話をしておられましたが、これは何時も皆さんもそういう風に考えておられると思うですけれども。日々が間違っていなかったと言う様な答えを出しながら、日々信心の稽古させて頂くと言う。例えて云うとお参りしようと思っておった。所が目が覚めなかった。だからそれは不可抗力だと。お参りしようと思いよったら、丁度人が訪ねて来た。だからお参りが出来なかった。
それでもそこにははぁ今日はお参りしなかったけれども、お参りを途中から止めて来たけれども、おかげだけは間違いない答えが出ておる。それで自分の信心は、今日は間違っていなかったなと言う様な頂き方です。こういう頂き方が合楽で改まらせて貰わにゃいけない、所謂神乍主義と。本当の意味での神乍ではなくて、本当の神乍と云うのは、限りなく神様がおかげを下さろうとする働き。限りなく信心を進めさせて下さろうとする働き以外にはないです。
そこで私共が寒修行に入ってから、怠慢と言う事について、特に私は心懸けさせて頂いておる。皆さんもそうであろうと思うがです。自分の心の弛みが寝遅れた。自分の心の弛みが、参られない様な働きになって来たという風な頂き方からしか、私は信心の徳というものは受けられないと思う。おかげは受けても、徳は受けられないと思う。だから此の辺の処をです、も少し、本当な意味においての身凌ぎの出来る信心を頂かせて貰わなければいけんのです。
今日御祈念中にあれは何でしょうか、ライスカレ-か何かの、コマ-シャルじゃなかったかと思うんですけども。食べたい時が旨い時という。皆さんも聞いておられると思う。食べたい時が旨い時という。確かに食べたい時が旨い時ですね。食べたくない処に出されても、それは美味しくないもんです。どんなに美味しいものだからと言われても。けれども矢張りお腹がすいてる。ああ食べたいなぁと思う時なら、少々味が辛かっても甘かっても美味しい食べたい時が旨い時だ。
この様な事を頂いてどんな事だろうかと、私は思わせて頂いたんですけれども。この六十四節を段々頂いておるうちにです。ははぁそう言う事だろうと思う事はですね、例えば御参りが出来難うなったり、修行しょうと思いよるばってん、修行が障害が出来てお参りがし難くなっておる時には、食べたい意欲がない時だと思うですね。その食べたい意欲というか、本気で修行させて頂こうという意欲がない時です。だからそこん処をはぁ今自分は、ここん処を大事にして行かねばならないなと。
第一今度の寒修行には、一つ本気でお参りし抜こうという意欲が足りない。参られたら参ろう位のこと。参ろうちゃ思うとるけれども起こしちゃ頂くけれども、又つい眠ってしもうとるという時には、食べたい意欲がない時ですからそれは美味しくない。けれども本気で修行させて頂こうという時ならです。どういう障害が有ってもそれを乗り越えて来ることに、有り難いものを感じるです。
もしそれが出来なかったら、それこそ慙愧に耐えないそれこそ相済まん。その相済まん信心に対して、又お詫びの信心の一つも別にさせて貰わなければおられないと云うものが生まれる筈です。お腹が一杯になったおかげを頂いた。おかげがドンドロとなってしもうておる訳です。ぼんやりして来てるだから人間ですから、どういう時でもありますけどもそういう時をです私は大事にする。お参りしようと思うけどお参り出来ない様な、修行しようと思いよるけれども、修行が出来ない様な障害が起きて来る。
その事自体をです食べたい意欲というものが欠けておる時と、悟らせて貰ってそこん処を、私は泣く泣くでも一つ辛抱し抜かせて頂いた先にです。頂けるのが身に徳を受けてという徳になるとこう思う。そこが徳になるそして受けて行く処の身凌ぎであって、本当の意味の、身凌ぎの出来る信心と言う事になると思うです。ここん処を怠慢自分では怠慢と思ってはないけど既に怠慢なのですから。
そこん処に修行させて貰わなければいけない。身凌ぎと言う事を。唯おかげを受けておるから、云うならば自分の不信心を棚に上げて、自分の食べたい意欲が無いのを、神乍と言う様な頂き方をして、もし食べたくないなら、今運動不足だと悟らせて貰って、お腹を減らす修行の一つもさせて貰うて、食べたい意欲を作ってそして修行に打ち込む。そうしておってもやはり障害がある。それを乗り越える工夫をする。
日田の綾部さんが、今お産に娘さんが帰って来ておられるとが、もう帰らんならん。どっちかち言うと大変子煩悩な方ですから、送って行って向こうの親戚にも御挨拶の一つもさせて貰うて、そして何日か居って帰って来る。所がそれが丁度寒修行中に当たっておる。そこでどうしたなら良かろうかという迷いが、いわば本当に迷いですはね。子供にひかれる信心にひかれる。どっちにしたが本当じゃろうかとこう言う。お伺いが有ったそこん処を工夫しなさらにゃいけん処ですよと私は申しました。
それは行ったら泊まって来る、遠方ですから送って行ったら、一晩でも泊まって来なければ出来ない様な処だけれども。まぁ色々考えられて送ってだけは行こうと。そしてその足で又すぐ帰って来ようと。すると向こうにも顔が立ち又神様の方も一日も休まんで良いから、そげな風にさせて頂くと言うて、昨日でしたかそのお届けが有りました。それは普通から云うならば送って行く。そして一晩二晩泊まって来てそして帰って来る。まあいうならば、神様に対する口実は出来る言い訳は出来る。
そういう時にです一工夫しなさらなければいけませんよと。向こうも立ちゃこっちも立つ。娘にも言い訳が出来る、神様にも言い訳をせんですむ様なおかげを受けられるという。そういう風にさせて頂いたとこう。信心とはそういう行き方です。それを云うならば一にも神様二にも神様、三にも神様という行き方なんです。云うならば一にも押し二にも押し、三にも押し信心はこれ意外にはないんだと。そういう行き方にです信心して徳を受けると言う事は、そういう行き方からしかお徳は生まれて参りません。
神様が頼りになる当てになりなさる。神様のご信用が付かん筈がない。ああして毎日参ってきよるばってん、あれは自分の何か要件があると、すぐ向こうの方さん行くけんでと言う事であったら、神様が当てにはならんでしょうが。何時そう言う事になるか判らん。そこで私共は、何時もという訳にはいけんから、せめて年に一回の寒修行、年に一回の夏季修行という風に、修行の期間というものが有りますから。
せめて普通はそこの辺の処を、大目に見て貰うような信心というか、自分で割り切った信心で行ってもよかろうけれどもです。せめて修行中だけ位はそこの処を毅然としてやって除けようという、然もそれをです修行中だけではない、常日頃でもそういう行き方で行ける人だけが受けるのがお徳です。御神徳ですだからそういう一つの雛形を、私共は修行中に身につける訳です。所謂それは古風かも知れません、それは昔流の信心かも知れません。私は夕べ一時過ぎでしたでしょうか。
一寸お広前に出てお礼させて貰わんならん事があったからお広前に出てきた。そしたら、暗い廊下の真中へ誰か真っ暗ですから座っとりますもんびっくりしました。そしたらなんの栄四郎が板張りにこう座ってから、御祈念しよる様な感じです。私は抜き足差し足で、そこを通らせて頂いたんですけれどもね。何か恐らく朝のご祈念ならご祈念に出られなかったから、晩にその替わりと言った様な風で、修行でもしとるとじゃなかじゃろうかとまぁ思うた訳です。
廊下の真中で真っ暗な処でちゃんと座っとる廊下の真ん中で。私は若し出来無かったら、その位なです出来なかった処を、お詫びをしただけで心がスキッとしたと云うのが、ドライな信心です。けれども人間だから、どこにお粗末御無礼があるか判らんけれども、そこの処を出来なかったら出来なかったで、お詫びの標しにと言う様な修行でもさせて頂くと言う事が私は、エレガントな信心とでも申しましょうかね古風です。ドライな信心から、おかげは生まれてもです。心が楽になりますからね。
心に引っ懸かりませんから、おかげはスム-ズに頂けます。けれどもお徳は決して受けられませんです。身に徳を受けて信心して徳を受けて、生まれて来る処の身凌ぎであって、本当な意味での身凌ぎだ。身凌ぎが出来る様になったら、神様は何時も這えば立て、立てば歩めと言うのが親心ですから、うんその位でよかよかてんなんてん、云いなさる筈がないですそうでしょうが。ようやく這い這いし習うた。もうそれで這わなかったら、どげんなりますか立ちもきらん歩きもきらなかったら。
そこで私共がです絶えず、はぁこんな心が油断しとる時じゃなかろうか。こういう時が、怠慢じゃなかろうかと言う様にです。やはり自分の心にそれを頂き、そしてそこから答えを出していくと言う様な信心から、徳が受けられる。信心して徳を受けてという処を、疎かにして、只身凌ぎと云う処だけでは、唯おかげだけの身凌ぎの信心になって、座してしまう訳です。お徳を頂いての身凌ぎでなからなきゃいけん。
私は非常に残念に思う事は一通りの、這い這いが出来るようになると申しましょうか。そすとその辺の処で私は信心を右左にしてしまって、唯おかげの上に座してしまうと云うような処で信心が伸びない人達の事を、非常に残念と思う。だから是は私自身、結局判らせきらんのだから。これは他人じゃない、判らせきらん私自身がこれは力が足りないと思うて、お詫びをさせて頂いておる訳ですけれども。それでは受ける方の側も残念じゃないでしょうか。だから皆さん今日私が申します様な事をです。
皆さんはまだそこまで行って居られないかもしれません。只おかげだけの身凌ぎですらが、どう言う事か判らん人すらがあるかも知れません。けれども必ずそこまでは到達して貰わなければならない。そしてそこで腰掛けずに、それから先をです徳を受けていくという信心。それをせめて一ヶ月なら一ヶ月の寒修行の間にははぁこういう行き方が、徳を受ける行き方だなぁ此の先に、頂けれるおかげが身凌ぎの出来る信心だなという風にです。分かっておいて頂きたいと思います。
神様の願いというものはもう這い這いが出来た。ヨチヨチ歩き習うた。それで良いということでは決してありません。這い這いが出来るそして歩き習うた。いや歩き習うただけじゃない。それこそ足を大地にしっかりと踏んまえて、そして御用の一つも出来る。親のお手伝いの一つでも出来ることを、神様としては願いとしておられる。それが親心です。這えば立て立てば歩めが親心なのですから。これは私自身信心を進めてきてです。恐らく段々段々、信心は窮屈になっていくだろう。
そして脇から見ると窮屈の様ですけれども、自分の心の中には、それこそ世界が和賀心にあると言う様な、広い有り難い楽しい信心になっていかなければいけません。昨日もそのことを申しました事でしたけれども。三代金光様のご信心でもです。初め間は辛うて辛うて泣いたと仰せられますから、その泣く時点でです楽な方を取っておったら、金光様の御神徳というものは、お出来にならなかったと思う。
そこを辛抱し抜かれた先にです。とても、人では真似が出来んような御修行をなさりながら、それをきついとも苦しいとも思わんで、ただ思うことも、欲しいものも無くなって、ただ有難うて有難うてと言う様な信心の世界。云うなら徳の世界が開けて来るのです。眠いから寒いからという処を、良い加減にして次のおかげの世界は有っても、徳の世界に出られる筈が有りません。金光様のご信心は結論すると、どうぞ徳を受けて幸せになってくれというのが、神の願いでありますから。
金光様のご信心はみんな御徳を受けていくことの為の修行なんです。おかげだけなら金光様の事は要らんそんな感じです。だから御徳を受けて行くことの為の道をつけて下さるのです。そういう所がですこの方は参って尋ねる処が無かったと、表現しておられる処ではなかろうかと思う。それを氏子はおかげと頂いて、遠路の処を参って来るけれども、御徳を受けていける道それが判らない。どういう信心したら御徳を受けられるじゃろうかと、御徳が欲しいけども判らん。
判らん処を合楽では教えて頂いて居るのだ。だからそこの処を頂いていかずしては、合楽におかげを頂いとる値打ちがない。そこん所を私共はおかげを頂いて、所謂おかげの世界から皆さんの場合は、おかげの世界に入ったらおかげが受けられる様な、在り方も身につけて行かねばなりません。それはようやく這い這いが出来た処でしょうから、今度はさぁ立てさぁ歩めと言うて下さる。それに答えていく信心
。その過程においてです神様のお試しもありゃ、又は修行に支障を来たすような、いろんな工夫をしなければ、分からない様な処にもなりましょうけれども。そこを私共が信心とは一にも押し二にも押し、三にも押しだという行き方。信心を進めて行く事は、そこん処を大事にするもんだと云う思い込みが出来ておりますとです。私共が愈々食べたい時が旨い時であって、食べたいという意欲が出ておってもです。
食べられんでお腹すかしとかんならんと言った様な事にならんですむ信心。本気で修行させて頂こうと。食べたいと思いよるけれども、そこに障害がある。云うならば、あんまり美味しくないと言った様な時に、これは自分の運動不足だと修行不足だと思うて、お腹をすかせて貰えれる位な精進が、必要だと思うです。そしてそれこそこげな眠か思いば、こげな苦しい思いば、いつまっでん続けんならんと言う様な事ではなくて。
その事が有り難いと云う事になってくる時です。愈々私は尊い信心と言う事になって来るのじゃ無いかと思うです。そういう本当の事を判らせて頂く。雛形的にでも判らせて頂くのが、私は寒修行だと思うです。ですからその寒修行が、三十日よりも二か月、二ヶ月よりも三ヶ月と出来るような工夫が、やっぱり必要なんです。そしてそれがです楽に出来る楽しう出来れる。
昨日の御理解に申しましたように、勘三郎と勘九郎親子の芸事にかけてなら、どんな苦しい修行であっても、一遍も苦しいと思うた事が無いと、勘九郎が言っておる。好きだからなんです。そこで信心が好きになる工夫を、手立てをさせて貰うてです。信心して徳を受けることのおかげを頂いて、そこから先に生まれて来るのが、本当の意味での身凌ぎの信心。その身凌ぎというのはです。
ただおかげの世界おかげが頂ける。人に頼らんでん自分だけでも、やって行けると言った様なものでなくてです。その身凌ぎの信心が出来る。そこに親心を感ずると言う事はです。今申します此の神様ばかりは、その位でよかと言う事は、決して云われる神様じゃ無いと言う事。這いだしたら立て、立てというたら歩め、それがその御引き立てを頂くことが、こよなく有り難くなって来るという信心にならなきゃいけんですよね。
どうぞ。